柏崎とキーン先生の絆

この経緯を辿ると、そこには一本の人形浄瑠璃を復活上演させようと努めた人々の人間模様とそこで培われた絆が見えてきます。 2006年10月、「素晴らしい伝統芸術は、緑の美しい自然環境にふさわしい。それを生み出す和の心を育てたい」と柏崎の市民団体が日本の浄瑠璃とモンゴルの馬頭琴によるコラボレーションイベントを企画。体調を崩し、文楽座を辞めて郷里、新潟に帰っていた上原誠己(義太夫節三味線弾き五世鶴澤淺造)は、そのイベントに招かれ、義太夫節の弾き語りを再開。さらにキーン先生を訪ねて活動の助言を乞います。その出会いでキーン先生は一本の古浄瑠璃の復活上演を薦めました。それは「越後國柏崎 弘知法印御伝記」でした。

展示室1

ドナルド・キーンの歩み

生を受けた1922年から逝去した2019年までの人生を9つの時代に分け日本文学研究活動や歴史的背景、エピソードなどを貴重な写真と共に紹介します。

日本文学との初めての出会い

『源氏物語』1940年、18歳のキーン青年はニューヨーク・タイムズスクエアの行きつけの本屋で2冊の本が目に留まります。アーサー・ウエーリ訳の『源氏物語』でした。人生を決める運命的な出会いでした。

ドナルド・キーンの文学研究世界を彩る人物図鑑

研究、恩師、友人、日本で出会った作家、の4つの視点から、近松門左衛門や永井道雄、三島由紀夫などそれぞれの人物と如何にかかわり、どのような研究世界を切り拓いてきたのかを見つめます。ほかに、ドナルド・キーンの人間性を伝える出来事をジオラマで紹介、代表作品、教育者としての素顔、などの展示があります。

展示物

ドナルド・キーンの人間性や日本への思いを伝える
ジオラマ碧い眼の太郎冠者

1953年夏、憧れの日本留学(京都大学)が実現すると、キーン先生は日本文化の取得に努めます。下宿から近い智積院で書を習い、能楽堂で観た狂言師の見事な芸に心を奪われ、大蔵流の茂山千之丞に狂言を習います。3年後、1956年9月13日、キーン先生は品川・喜多能楽堂で狂言「千鳥」の太郎冠者を演じました。展示室ではジオラマとともに当時のNHKニュース映像で、太郎冠者を演じるキーン先生をご覧いただけます。

ドナルド・キーンの仕事 ―― 日本文学研究の樹

ドナルド・キーンの多岐にわたる日本文学研究の世界を一本の樹にグラフィック化して展示します。ドナルド・キーンの日本文学研究の樹。キーン先生本人と綿密に作り上げた大樹です。2020年のリニューアルに伴い、最後の本を追加し完成しました。

展示室2

日本文学研究の原点『源氏物語』とアーサー・ウエーリ

アーサー・ウエーリが1925年から1933年にかけて6分冊で出版したThe Tale of Genji は、欧米の文学の世界に大きな反響を巻き起こし、名だたる新聞や批評誌はそれぞれに賞賛の言葉を贈り、ウエーリの翻訳を高く評価したのです。

日本文学研究の原点太平洋戦争とドナルド・キーン

太平洋戦争に語学将校として任官したドナルド・キーン。日本兵の日記や手紙などの翻訳もまた語学士官の重要な任務でした。そうした任務の中で、激戦地、ガダルカナル島で戦死した日本兵の日記を読み、戦場で綴られた日本兵の言葉や思いに心を揺さぶられ、深い感動に包まれていったのです。

復元展示室

キーン先生の自宅は、コロンビア大学に近い、ハドソン川の川辺に建つ由緒あるアパートメントの11階にありました。その自宅の書斎は、キーン先生が原稿を執筆する仕事場であり、多くの友人たちと語らう場でした。その書斎と居間をそのまま再現した展示室は、日本文学研究一筋に生きるキーン先生の思いを知ることができる場でもあるのです。

現在の企画展

高橋義樹(筆名 堀川潭)の太平洋戦争に関わる著作は、癒しがたい戦争の傷や人間性の破壊を痛烈に訴えかけている。中でも、太平洋戦争終戦前夜のハワイ日本兵捕虜収容所で行われていた、ほとんど知られていない事実を明らかにする著作は、歴史的にも、文学的にも貴重な資料である。

それは、一人の力では抗えない戦争の中で、平和な明日を切り拓きたいと望んで行動した日米の青年たちの知られざる歴史の一ページである。

当センターでは、この機会に、ドナルド・キーンの日本文学研究の一つの原点、太平洋戦争を見つめなおすと同時に、ハワイ日本兵捕虜収容所で出会ったドナルド・キーンと高橋義樹の二人の人生に秘められたエピソードを通して、戦争と人間を見つめたいと思います。

会  場
ドナルド・キーン・センター柏崎 2階企画展示室
開館時間
10時から17時(入館は16時30分まで)
休館日
毎週月曜日・火曜日
12月26日~3月31日は冬季休館
入館料
大 人 500円
中高生 200円
小学生 100円
※入館料で企画展を観覧いただけます。
主  催
公益財団法人ブルボン吉田記念財団
後  援
新潟県教育委員会、柏崎市教育委員会、新潟日報社、毎日新聞新潟支局、読売新聞新潟支局、産経新聞新潟支局、朝日新聞新潟総局、日本経済新聞社新潟支局、共同通信社新潟支局、時事通信新潟支局、NHK新潟放送局、BSN新潟放送、NST新潟総合テレビ、TeNYテレビ新潟、UX新潟テレビ21、FM新潟77.5、柏崎日報社

◆本展を開催するにあたり、下記の皆様にご協力を賜りました。ここにお名前を記して心より感謝申し上げます。 (敬称略) 

特別協力
高橋幸子、高橋美加子
協  力

個人 アン・ケーリ、伊藤礼、キーン誠己、ジャニーン・バイチマン

団体 朝日新聞社、岩波書店、共同通信社、国立国会図書館、同志社アーモストクラブ、 新潟日報社、にいがた文化の記憶館、日本大学、文藝春秋、北海道新聞社、毎日新聞社、株式会社ブルボン

文学青年髙橋義樹上京ー伊藤整の作品「ゆうの街」に感動ー

1938年(昭和13

サイパン島の玉砕

1944年(昭和19)7月

グアム島の玉砕

1944年(昭和19)8月

逃避行、「運命の卵」ー 米軍の捕虜となりハワイ日本兵収容所へ ー

1944年(昭和1911

ハワイ、イロコア・ポイント捕虜収容所

1944年(昭和1911

米海軍情報将校ドナルド・キーンの尋問

1944年昭和1912

シャワールームでのレコード音楽会「戦場のエロイカ・シンフォニー」

1945年(昭和20)1月

日本兵捕虜を尋問するドナルド・キーン(沖縄戦)
ベートーベン作曲「交響曲第三番 英雄」
のレコードジャケット(高橋義樹が日本に
帰還した後に購入したもの)

にいがた文化の記憶館2014年度企画展「終戦を促した祖国愛 米軍将校と日本兵捕虜」
「捕虜になった記者 やなぎゆたかたちの戦後」と題した連載企画(「新潟日報」2017年)
「マリヤナ時報」の作成
米海軍情報将校オーテス・ケーリと日本兵捕虜の間に生まれていった心の交流

収容所内で計画された早期終戦促進活動
 捕虜たちが制定した“憲法”
ポツダム宣言の内容を知らせる「マリヤナ時報」号外
「三国共同宣言発表 日本に対し戦争終結を提議」
日本は黙殺、アメリカは広島へ原爆投下
長崎への原爆投下、条件(国体の護持)付きじゅだく

オーテス・ケーリ
1944 年7 月パールハーバーで

宣言受諾を巡る日米の和平交渉の内実を伝え、無条件降伏を進めるためのビラ「日本の皆様」
聖断

「運命の卵」、「第三交響曲」、「真珠湾・終戦前後」

ドナルド・キーン、「第三交響曲」の読書評を手紙で送る

1954年(昭和29)2月22

二人が東京・銀座で偶然の再会

1954年(昭和29)4月1日

 再会の写真のお礼を述べたドナルド・キーンの葉書き

1954年(昭和29)8月8日

 雑誌「中央公論」5月号 髙橋義樹の返答

1955年(昭和30

国際ペンクラブ日本大会

1957年(昭和32)9月1日~8日

短篇集「運命の卵」出版

1957年(昭和3210

 ドナルド・キーンから高橋義樹への手紙

1957年(昭和321214

ドナルド・キーンと伊藤整の対談 於ニューヨーク

1960年(昭和351210

共同通信 特信文化部から配信されたドナルド・キーンの特別寄稿記事

1961年(昭和36)1月

再会を祝し新宿で
(撮影:藤本四八)
ニューヨークで対談する二人
国際ペンクラブ日本大会
(左 ドナルド・キーン、右 高橋義樹)
ドナルド・キーンが高橋義樹に宛てた葉書き
1954 年(昭和29)8 月8 日
ドナルド・キーンが高橋義樹に宛てた手紙
1957 年(昭和32)12 月14 日

「伊藤整氏との三十年」~「文藝生活」(28号~51号)7年間の長期連載~

堀川潭著『伊藤整氏との三十年』
新文化社 1980年(昭和55)
髙橋義樹の長女を抱く伊藤整

文学青年髙橋義樹上京―伊藤整の作品「ゆうの街」に感動ー

1938年(昭和13

サイパン島の玉砕

1944年(昭和19)7月

グアム島の玉砕

1944年(昭和19)8月

逃避行、「運命の卵」ー 米軍の捕虜となりハワイ日本兵収容所へ ー

1944年(昭和1911

ハワイ、イロコア・ポイント捕虜収容所

1944年(昭和1911

米海軍情報将校ドナルド・キーンの尋問

1944年昭和1912

シャワールームでのレコード音楽会「戦場のエロイカ・シンフォニー」

1945年(昭和20)1月

日本兵捕虜を尋問するドナルド・キーン(沖縄戦)
ベートーベン作曲「交響曲第三番 英雄」 のレコードジャケット(高橋義樹が日本に 帰還した後に購入したもの)

にいがた文化の記憶館2014年度企画展「終戦を促した祖国愛 米軍将校と日本兵捕虜」

「捕虜になった記者 やなぎゆたかたちの戦後」と題した連載企画(「新潟日報」2017年)

「マリヤナ時報」の作成

米海軍情報将校オーテス・ケーリと日本兵捕虜の間に生まれていった心の交流

収容所内で計画された早期終戦促進活動
捕虜たちが制定した“憲法”
ポツダム宣言の内容を知らせる「マリヤナ時報」号外
「三国共同宣言発表 日本に対し戦争終結を提議」
日本は黙殺、アメリカは広島へ原爆投下
長崎への原爆投下、条件(国体の護持)付きじゅだく

宣言受諾を巡る日米の和平交渉の内実を伝え、無条件降伏を進めるためのビラ「日本の皆様」
聖断

オーテス・ケーリ1944年7月
パールハーバーで

「運命の卵」、「第三交響曲」、「真珠湾・終戦前後」

ドナルド・キーン、「第三交響曲」の読書評を手紙で送る

1954年(昭和29)2月22

二人が東京・銀座で偶然の再会

1954年(昭和29)4月1日

 再会の写真のお礼を述べたドナルド・キーンの葉書き

1954年(昭和29)8月8日

 雑誌「中央公論」5月号 髙橋義樹の返答

1955年(昭和30

国際ペンクラブ日本大会

1957年(昭和32)9月1日~8日

短篇集「運命の卵」出版

1957年(昭和3210

 ドナルド・キーンから高橋義樹への手紙

1957年(昭和321214

ドナルド・キーンと伊藤整の対談 於ニューヨーク

1960年(昭和351210

共同通信 特信文化部から配信されたドナルド・キーンの特別寄稿記事

1961年(昭和36)1月

再会を祝し新宿で
(撮影:藤本四八)
ニューヨークで対談する二人
国際ペンクラブ日本大会
(左 ドナルド・キーン、右 高橋義樹)
ドナルド・キーンが高橋義樹に宛てた葉書き
1954 年(昭和29)8 月8 日
ドナルド・キーンが高橋義樹に宛てた手紙
1957 年(昭和32)12 月14 日

「伊藤整氏との三十年」~「文藝生活」(28号~51号)7年間の長期連載~

堀川潭著『伊藤整氏との三十年』
新文化社 1980年(昭和55)
髙橋義樹の長女を抱く伊藤整

高橋義樹(筆名 堀川たん)の著作

高橋義樹(筆名 堀川たん)の著作

高橋義樹は復員後、自らが体験した壮絶な太平洋戦争の記憶を堀川潭
の筆名でノンフィクションや自伝的小説として発表しました。その一作に、早期終戦を目指す活動を描いた「真珠湾・終戦前後」があり、さらには、ドナルド・キーンが自伝で「戦場のエロイカ・シンフォニー」と綴る捕虜収容所のシャワールームで開いたレコード音楽会が捕虜の目にどのように映ったかを心理描写を交えて描いた「第三交響曲」があります。
日本留学で京都に滞在していたドナルド・キーンは、その読後感を手紙に書いて高橋義樹に送りました。音楽会で捕虜の感情を探ろうとしたのではないかと疑念を抱く主人公に、音楽は国境を越えると考えていたドナルド・キーンは、「私の動機は純粋であったので貴方以外の捕虜に、通じたかもしれません」、「貴方が私の誠意を疑ったことを残念に思います」と綴っています。これは、捕虜という存在は相互不信を生み、人間性を失っていく精神の地獄であることを示唆する重要な書簡です。
この手紙をきっかけに、ドナルド・キーンと高橋義樹の新たな交流が始まります。ドナルド・キーンの「文学の世界」をジャーナリスト、高橋義樹が新聞を通して発信していったのです。この事実は、米軍将校であったドナルド・キーンと捕虜であった高橋義樹の間に心の交流が甦っていったことを裏付けます。それら一連の資料群は、一つの時代を映す貴重な資料であり、歴史の闇に埋もれさせてはならないのです。

ハワイ日本兵捕虜収容所では

米軍将校オーテス・ケーリやドナルド・キーンは、「捕虜は恥ではない」と日本兵を懸命に説得し、「人は国を超えて同じ」であると言い、「人間主義」の信念のもとに「生き直し」「学び直し」の寺子屋まで開いたのです。日本人捕虜に「人間」を取り戻してほしいと考えていたオーテス・ケーリやドナルド・キーンの熱い思いがそこにはありました。敵味方を超えた心の交流が生まれていったのです。
終戦前夜の捕虜収容所で、歴史を動かす一つの活動が開始されました。米軍将校と日本人捕虜が協力し、新聞形式のビラ、「マリヤナ時報」を作成して早期終戦を促す活動でした。日本の上空から撒かれた「日本の皆様」と呼びかけるビラは、
昭和天皇に終戦の聖断を決意させた歴史的資料であると言えます。もちろんこの活動に参加していた仲間を、「裏切り者」「売国奴」と呼ぶ捕虜たちもいました。
そこには、「祖国愛とは」「日本人とは」を問う大きな問題が横たわっています。これは、今日においても問われる問題です。

イベント